声を求めることについて
なぜ『声』を集めているのですか?
子供の頃から「集めること」が好きでした
初めての収集物は、当時住んでいた家の周囲にあった砂利道で
気に入った石ころを探し集めることでした
それを並べて遊んでいました
(まだ自由に歩けない頃です)
少年の頃は、虫や魚などを集めました
大人になってからは
古物や古本を集めるのが趣味でした
(いつか手放さなくてはならない、必ずパッと亡くなる自分、そんなことを想うと・・)物理的にも心理的にも何かを所有していくことが難しくなりました
なにかを集めだすと
「集めること」自体が目的になってくるような気がします
現代では組織、個人、行為などに
存在意義、理念、使命、理由などを付けることが求められている
それを強く信じること、演じきることが求められている
企業理念やSNSの自己アピールなどでも
大そうな理念を掲げて競い合っている
全部似ている
そこには流行りがあり、他者の目があり、作為がある
損得勘定を隠して、表面的なきれいごとばかりがあふれている
すること、発想すること、何かを集めること、存在すること
理由や意味が必要なのでしょうか
本当にあるのでしょうか
大げさに言えば、それらの大半は虚構(嘘)である気がします
成長、拡大、評価、、、
そのようなものから離れて
無為であること
なるべく『無為』でありたい。
(『無為でありたい』と思った時点で、
既に無為ではない、おそらく逃れられない)
聴くこと
沈黙すること
言葉の意味、内容ではなくて
声と音に耳を澄ます
只の物理現象(波長)であるので、
嘘ではないような
どうなのかしら
よくする質問
・はじめての記憶、景色、思い出
・はじめての遊び
・ふしぎな体験
・すきなこと、すきなものについて
など
といってもルールがあるわけではないです。
台本的なものが一番苦手です。
※なぜ匿名性にこだわるのか
年齢、性別、所属、属性、
それらから声を切り離したい
誰もが平等で優越もなく自由に発する声
なるべく普遍的な声であるように
インタビューに協力して頂ける方を募集しています。
問い合わせ
yasumizo(アットマーク)hotmail.com